細川貴義 津軽三味線の出会いと歴史

私が津軽三味線と出会ったのは中学一年生の時でした、その当時は津軽三味線と言うものが良く分からない時期で、三味線と言うと腰の曲がったお婆さんが弾く楽器だと思っていました、私の父が青森県黒石の生まれで父から津軽三味線を習いに行かないかと誘われました、家の近くに当時民謡を教えている先生がいまして、その先生は民謡も教えるし津軽三味線も教えていました、私はぶっちゃけ嫌だな〜😣と思っていましたが学校の中で1、2を争う(下から😅)の勉強嫌いで唯一音楽と体育だけは良かったです😅、父がそんな私を見て将来の事を考えてちょっと見学だけでも良いからと言うので、まぁ〜親孝行のつもりで冷やかしてすぐ帰ろうと思っていました、その先生の自宅は歩いて10分位の場所で6階建てのマンションの一番上でした、エレベーター無しの階段only😅ゲッ‼️
部屋に入るとそこには沢山の生徒さんがいて当時NHKの番組で民謡あなたにと言う番組が放送されていました、ジーパン姿で民謡を歌っていた当時金沢明子、原田直之と言う民謡歌手があまりにも斬新な姿で(本来着物で歌います)歌ったことで大ブレイクをお越し民謡ブームと言う時代がありました
そのブームのおかげもあったせいか教室はまるで避難したかのようにごった返しで皆んな座っていました、その部屋の奥に先生が座っていて一人ずつ教えていました
生徒さんは皆んな年配の人で私はまだ中学生と言うこともあって快く受け入れてくれました(私の心の中はうっわ〜やだー😣)
そんな中にも私より一つ年上の女の子が一人いましてその女の子が超可愛くて一目惚れしちゃいました😍
今日は無料体験と言うことで私が先生に撥の持ち方叩き方を教えて貰ったのですが全然撥が糸に当たらなくて、力めば力むほど当たらなく、先生が(そんなに力んじゃ当たらないよと言って終了しました)撃沈です🥵
私の後にその女の子が三味線を弾いたのですが、なんと佐渡おけさを弾いていました、私は超ビックリして(すっすっすげ〜佐渡おけさを弾いてる😱)
ちょっと余談ですが何故私が民謡を知っているかと申しますと、私の両親は靴職人でいつも家で夫婦で靴を作っていました、父が大の民謡好きで靴を作っている時にBGMでいつも民謡をラジオでかけていました、私が生まれた時もズッーと民謡をかけていたので、いつの間にか私も民謡を覚えたくないのに覚えちゃいました
そんなことでいつの間にか民謡を覚えちゃったんです
話は元に戻ってその女の子が佐渡おけさを弾いているのを見て何だかムカっとして家に帰って親に(俺三味線習うよ)と言っていつか絶対追い越してみせると思いそこから私の三味線人生が始まりました

習うと言った物のとても難しい楽器で又三味線は高価な楽器でも有りましたので初めは先生がプラッチックで出来たおもちゃの様な楽器を貸してもらいました、それで練習をしたのですが、やはり撥が糸に当たらず苦戦していました、何時間練習したんだろう〜🤔
練習が終わった後は必ず手が固まった状態でなかなか手が開けなかったです😰
そうこうしているうちに段々と右手の手首が痛くなって物も持てない感じになってきたので整形外科に行ったら手首にブロック注射をされました、ヒェ〜😱
医者が(一ヶ月何も持たなければ治るよ)と言っていたけどそしたらまた初めっからやり直しになるじゃん😩と思い騙し騙し練習しました
うちには大きな鏡が無いのでタンスが艶があって光っていたのでタンスを見ながら自分の姿を見て叩きの練習をしていました、そして2〜3週間して撥が当たる様になったので今度は左手の糸の押さえ方、かまし(かましとは、指を糸に絡ませて弾く事)を習いました、これは本当に難しかった😥
それから2ヶ月くらいで津軽三味線の基礎となる曲、一段が弾ける様になりました(一段とは、ピアノで言えばバイエル初心者の曲みたいな物で一段から六段まで六曲あります)当時私は学校から帰ると直ぐに三味線の練習をしていました(本当はやりたくやいけど😔)二階で練習をしていたので一階では両親が聞いていてやはり段々できる様になると父親から最初から習った曲を弾いて最後に今習っている曲を弾いたら遊びに行っても良いと言っていましたが曲数が増えると遊ぶ時間が無くなって来たのでつい一曲弾かないで辞めて遊びに行こうとすると、お前今日はあいや節を弾かなかったなと言って俺が忘れたと言うと、毎日弾いているのに忘れる訳が無いだろうと言って俺は裸足で逃げて親父が追いかけて来たのを思い出します😓
だから私の中学生活はいつも学校へ行って帰ったら三味線の稽古の繰り返しで友達と遊ぶ思い出が余りありません😥
メキメキと上達した私は半年も満たない間に女の子よりも上手くなっていました☺️
それで前から一目惚れしていたので壇上の思いで付き合って下さいと言ったら(お友達でいようね)と言われ又撃沈しました😱

中学3年の時に誰にでも来る進学の話になりどうするか?
三味線の先生から内弟子になってくれと言われ、高校に行くか内弟子になるか悩みました、親からは今は手に職を持つ時代だから万が一内弟子に入って失敗しても潰しが効くから調理師免許を取った方がいいと言われ一年間調理師専門学校へ入学しました
無事卒業して調理師免許も取得していざ先生の家で内弟子の修行に入りました、四六時中先生と一緒に行動を共に動き、家の中では掃除洗濯など、芸は盗めと言うことばがあり先生の弾いている姿、お弟子さんを教えている姿などを見て勉強しました、その間民謡酒場で働いたり、先生のお弟子さんを教えたりして4年間の修行をして自立しました、いざ自立したからと言っても直ぐに仕事やお弟子さんが来るわけでも無くまずは親の仕事を手伝っていましたが父親がやはり津軽三味線を習うなら有名な先生が良いと言って当時テレビ、ラジオで有名だった澤田勝秋先生の門を叩き澤田会に入会しました、稽古場は新宿の光林坊(当時新宿コマ劇場の裏)でお昼から夕方まで先生がいると言うのでそこを訪れたのですが初めて澤田先生にあった時、うぁ〜テレビで出ている先生だぁ〜と一瞬で緊張して初めて習った時ガクガクで汗もダラダラ出ていて今でも覚えていますがその時に先生が一言、緊張しないでっと言われて、ああーなんて気さくな先生なんだ〜と思い緊張がほぐれたのを今でも思い出します🙂

家元(澤田勝秋)先生はいつも忙しいのでお稽古場には余り来なかったです😅
私が何時も習っていた先生は名取の先生で家元に直接習った回数は少なかったね〜😅
ある時家元が光林坊での稽古は中止にして自宅に来てと言われたので、家元の自宅は神奈川県の大和市つきみ野なので堀切から電車で通うと片道2時間は掛かりました
三味線を持って家元の家に行き習ってまた2時間かけて帰る生活でしたがある日、家元の家に行くと鍵がかかっていて、あれ〜今日は稽古日なのになんで居ないんだろうと何回かベルを押したのですが反応が無いので家に帰りました、当時は携帯などが無かったので家に着いてから先生宅に電話するとあっ!と言ってもう誰もこないと思ってパチンコに行っちゃった、ごめんねと言って仕方なくその日は諦めましたがまたその後3回くらい有りました😱

澤田先生に習って二十歳になった時でした、家元から名取にならないかとお誘いのお言葉を頂き(今で言うならのれん分け)名前は自分で考えて決めれば良いからと言われ、家に帰って親に相談したら、澤田先生は立派なお方なので名前を貰った方が良いと言う事で、お名前を頂く事にしましたが、さぁ〜、名前はどうしたら良いかな🤔澤田勝までは他の先輩方も一緒なのですが最後の文字をどうするか?
親と悩みましたが、やはり貰うんならインパクトが有る名前が良いと言う事で先生が秋なので春がいいんじゃ無いかと言う事で澤田勝春と言う名前を頂きました😊
後に先輩たちと同じ兄弟弟子になったのですが、先輩から実は家元から連絡があって名取の役員を集めて、とうとう春が欲しいと言う人物が現れたと言う事で緊急役員会議を開いたそうです、家元がどーすんべかっと悩んでいたら先輩たちが良いじゃ無いですか、未だ若いんだから未来がありますよって言って頂き、家元がそんだなーって言って春をくれたんだよって後で聞かされました😅
先輩達も本当は春が欲しかったそうですがお後がましくて遠慮うしていたのですが私がそうとも知らず春が欲しいと言って緊急会議になったと聞いてちょっとビックリしました😅

先ほども申しましたが名取イコールのれん分けという事で澤田の名前で営業をしても良いと言う営業許可書の様な物ですが、ある時に名取になって直ぐに家元から電話が掛かって来まして、今鬼太鼓座の田耕(デン タガヤス)座長が来ているんだけど、アメリカで太鼓と津軽三味線のコラボをやりたいと言う相談に来たらしく、春、アメリカに行きたくない?と家元から電話がかかって来ました、私は一度も海外へ行った事が無かったし飛行機に乗るのも初めてだったのでちょっと心配でしたが、行きたいです、宜しくお願いしますと言い、家元がじゃあ、田(デン)さんに伝えるよと言い後に家元宅へ行き田さんに初めて会いました、田さんが一度メンバーに会って紹介したいと言う事で、当時鬼太鼓座は佐渡から長崎の雲仙普賢岳の中腹に小屋が会ってそこへ行く事になりました
日にちを決めて当日羽田空港へ行って飛行機に乗りました、それは超緊張して初めてだったのでワクワクしていました✈️
田さんから、とりあえず一週間泊まってもらって君はメンバーと同じ扱いするからねって言われて私も良くわからず宜しくお願いしますと言ってメンバーのいる小屋に到着しました、自己紹介をしてその日は休みました
次の日朝の5時頃からメンバーの人たちが起き出してまず玄関で正座をして尺八を吹く人がいれば、声をあーーーって張り上げる人もいればただ座っている人もいて、メンバーは私もいれて15人位だったです
その朝の正座が訳30分位してそれから各自おはようございます、おはようございますと挨拶をして1日が始まりました
先ずは掃除、雑巾掛けをしてそれから食事です、食事は当番制で2日に交代で二人で山の麓まで歩いて行き、パン、牛乳、チーズ、ハムなど買って、又山へ戻りテーブルにセットするだけのものですが、セットが出来たら食事の用意が出来ましたと言って皆んなで食事をしてその後はミーティングです、リーダーが今日の1日のスケジュールを言い先ずはマラソン、続いて太鼓の練習、私は三味線の練習、その後近くの温泉旅館へ行ってお風呂に入って、夕食を食べて、今日の1日の反省を述べて就寝って感じです
マラソンは雲仙普賢岳を走るコースで約2、3キロ、山なので坂がキツく当時私はタバコを吸っていたことも有りゲロ吐きそうでした🤮
食事当番もやりました、なんか私が住んでいる世界とまるっきり違う世界に来たみたいで監獄に収監された様な感じで、これが田さんが言うメンバーと同じ扱いなのかぁ〜と思いちょっと後悔しました🥺
一週間生活をしている時に私は三味線で来ているのに太鼓もやらないかと言われ太鼓の練習もさせられました😰
先ず太鼓の締めから始めるのですが、太鼓には大きく分けてビョウで留めるビョウ留め太鼓、麻の紐、又は絹紐で締める締め太鼓などあります、締め太鼓は練習したら必ず太鼓を休ませるためにほどき、また始めるときは締めます、締め方は2人でやります、1人が紐を持って硬いかしの木の棒で紐を叩きもう1人に紐を預けてまた棒で叩きます、これが結構大変でしめ縄を手に巻きつけて思いっきり引っ張るので手の甲の皮がめくれてタコになっちゃいます😰
俺は三味線弾きなのになんでやるんだろう?😰
撥タコも出来てるけどしめ縄のタコも出来ちゃいました😅
それから一週間が経ちいよいよアメリカ公演の日が近づいて来て田さんが私に先にウチらが行っているので君は後から来てくれと言われ、先ず君はパスポートを取ってビザを貰ってくれと言われアメリカ行きのチケットを送るからと言ってアメリカで滞在する住所として名刺を貰いました
私は飛行機に乗るのも初めてだし、まして海外に行った事も無く凄く不安になって田さんにどうすれば良いのですかと尋ねたら、先ずアメリカ大使館へ行ってビザを貰って来てと言われただ注意しないといけないのは今回観光目的で来てくれと言われ、観光ビザなら直ぐに発行して貰えるから、仕事用だとH1ビザが必要で書類や検査で面倒くさいからと言って、入国するときはどうすれば良いのですかの尋ねると
Sightseeingと言えば良いよって言ってそれで解散しました😰

東京へ戻り言われた通りにパスポートを取ってビザを貰いにアメリカ大使館へ行きました、初めてアメリカ大使館へ入りましたがセキュリティーが凄くて先ずX線検査とボディチェックをして中に入り中はいくつかの窓口があってビザ発行の申し込み用紙に記入して手続きをしたのですが、滞在する住所がもらった名刺の住所を書いて今回このアメリカコンサートツアーは1ヶ月だったのでone monthと書いて提出したら、あなたはここに何しに行くんですかと聞かれ、観光ですと言われた通りに言ったら怪しまれて、あなたが不法滞在するんじゃないかと怪しまれて、もし日本に帰国するのなら仕事の休業証明書、又は結婚証明書が必要と言われその日はビザが貰えませんでした
ビザを貰いに行ったのは忘れもしません10月4日(金)でした、大使館は土日はお休みなので月曜日しか貰えに行けず出発日が10月7日月曜日の夜でした、因みに私の誕生日は10月7日です😅
その当時バイトでジグゾーパズルを作る工場で働いていました、約4年間働いて主に裁断機でダンボールや紙を寸法を測って切る仕事をしていました
そこの会社へ行き事情を話して休暇届の書類を頂きました(会社には前もって休暇を1ヶ月もらっていました)
いよいよ運命の日が訪れました、今日ビザが貰えなければアメリカに行けないので一番乗りに大使館へ行って又ビザの発行手続きをしました、今度は休暇届の書類も持っていったのでバッチリでしたが、やはりちょっと疑っていて今回はビザを発行しますが有効期限が3ヶ月だけですと言われました、本来観光ビザは3年くらいは有効だったのですが、私の場合は怪しまれて3ヶ月でした😅
まぁ〜取り敢えずビザが降りたので一度家に戻って成田空港へ出発しました
成田空港に着いてからも大変で、何しろ海外に行った事がないし誰もいないで私1人で渡米ですから凄く不安でした
貰ったチケットは大韓航空でホノルル経由のロサンゼルス行きのチケットで先ずカウンターへ行ってパスポートとチケット(当時複写式のチケット)を渡して手続きをして出国カウンターへ行って出国用紙に記入して渡すのですが、私は何しろ初めてなので出国するのに空港税を払わなくては行けないらしく一回並んだのですが印紙が貼っていないと言う事で後ろで印紙を買って貼り付けて持ってこいと言われて印紙を買って裏に貼り付けて再手続きをしました(そんなの初めてなんだからわかんねーよ😤)偉そうに、超ムカつく💢
出国手続きを済ませもうここからは引き返せません、ゲートに向かっていよいよ飛行機に搭乗して20:00位だったかな?takeoffしました✈️日本の夜景が綺麗で今でも覚えています😊

飛行機の中では機内食が出たり飲み物が出たりで初めての私にはとてもウキウキと不安とが混ざっていました、何しろ英語はまるっきり解らないので翻訳本を持っていって手探り状態です、段々ホノルルに近づいて来たら入国審査の書類をCAの人から貰って書いている文字は英語じゃん😱(当たり前だけど)翻訳本を見て何とか書きました
6時間位乗っていたのかな〜?ちょっと忘れましたがホノルルに着きました
ハワイは日本と違って暑かったです😓
何だかよくわからないけど人の歩く流れに付いて行ったらそこは入国審査でした、並んでいて前の人が通過していよいよ俺の番が近づいて来た時に心臓はバクバク状態でした🥶
先ずはパスポートと入国書類を渡して職員が私を見てHow long to stay?と尋ねて来たので私は何言ってっかわからなかったので取り敢えず教えてもらったSightseeingと言ったら又Where to stay?と又聞くから又Sightseeingと言って全然会話になっていませんでした(今考えればそりゃそうだね😅)
そこであたふたして話が通じなかった時に運よく日本人のCAの人が通りかかってそのCAの人がCan I help you?と言ってくれて通訳してくれました😅
色々と滞在する所や、どれ位滞在するとか聞かれ最後に入国の書類に金額が10,000ドルと俺が焦っていて書き間違えたらしく本当は1,000ドルしか持っていなかったのですが10,000ドル持っていたら税金を払わないといけないらしく俺がNO,NO,1,000ドルと言ったらreally?と職員が言って来たので(実は親もアメリカは危ない所だからね、ちゃんとお金は隠して持っていった方が良いよ)って言っていたので私はこのクソ暑いホノルルに着いていたのに腹巻をしてその中にお金をしまっていたので、OK,OKじゃ見せるよと言ってシャツをめくったらOK,that’s enoughと言って無事にスタンプを押して貰って中に入れました、ふぅ〜😅CAさんありがとうございました🙏

それから又同じ飛行機に乗ってロサンゼルスへ出発しました、又約6時間くらい乗ってロサンゼルスに着いたのは夜でした、到着出口で一緒に乗っていた乗客達が迎えに来てくれた人とハグしたりキスしたりしているところを見て、わぁ〜アメリカって所は本当に凄い所だなぁ〜と思いその当時は今みたいに人前でハグしたりキスしたりしなかったのでビックリしてました、まさにただの田舎もんでした😓
田さんが迎えに来てくれると言う事で私はそこから動かずじっと立って待っていましたが、段々乗客達も居なくなって私1人になり、そこのゲートの明かりも消え始めました、ヒェーーーーーェ😱😱😱😱😱😱❗️❗️❗️
電話を掛けたくても掛け方も知らないのでどうしたらいいんだぁ〜ーーーー😱😱😱不安で心がはち切れそうになりました😰
2時間後向こうの方から人影が見えて来て、田さんがいや〜ごめん、ごめん、ゲートを間違えちゃってさぁ〜と言って来ました😑
今の俺だったら間違いなくブチ切れて💢😡1人で行動してますがその当時の俺はブチ切れずにきっきっ来てくれて本当にありがとうと思いました😭(今思えば情けねー😠)
それから田さんとタクシーに乗ってホテルに向かいました、タクシーの中で田さんは今メンバーはシアトルに居るので明日飛行機に乗ってシアトルへ行くと言うので君に話さなくては行けない事が有るけど今日はホテルで休んでくれと言い、その日の長ーーーーーーーーい1日が終わりました、ホテルに着いて部屋に入ったらドアに鍵が2つも付いていて、外では日本で聞いた事が無いサイレンが鳴っていて(まるで白バイ野郎ジョン&パンチのサイレンの音が鳴っていました)『白バイ野郎ジョン&パンチは昔のアメリカのテレビドラマです、解る人だけでいいです😅』うわ〜、やっぱり物騒な所だと思いました
次の朝、田さんと私は飛行機に乗ってシアトルへ向かいました、飛行機の中で田さんがいろんなファイルを見せてくれて、日本には未だプロの太鼓集団が居ないので私が初めて作ったと言い、初代の人は林 英哲で彼は元はマラソンランナーでね、私はメンバーに誘うのはマラソンランナーの人なんだよと言っていました、それはどうしてですか?と尋ねると、先ず日本の太鼓を世界にアピールするにはインパクトが必要だと言い、それにはホノルルマラソンに参加して42.195キロを走り切っていきなり太鼓パフォーマンスをすると言うものでした、
それを見た外国人はうわっなんだあの日本人は、クックックレイジー😱‼️と思わせる事が大切なんだと言い、ホノルルマラソンはまさに世界に発信するコマーシャルに使うんだ、だから私はランナーをメンバーにするんだと言ってました、なるほど🤔
それから君に大事な事を言わなくては行けないと言い、実は君とは1ヶ月の契約だけど私もこっちに来て知ったんだが、現地のプロモーターが1カ所も会場を取って無かったらしく、君にこのままだとギャラが払えないと言って来ました、私は何のことかよくわからず、ハァ〜😦と聞いていましたが、君にギャラを渡すためにもこっちで改めて会場を取って演奏するしか無いので滞在日を延長してくれと言うので、冗談じゃね〜😡💢と言ってやりたかったですが、素直にハイと言いました😅
シアトルに着いてメンバーの人と合流してこれからは先ずシアトルで会場を取って演奏する、その為にはあっちこっちでパフォーマンスをしてチラシを配らないといけないと言いチラシを作ってお店や、商店街、大学の校舎などでデモストレーションを行い、宿泊した所はYMCAという所で要するにシュアハウスです
朝は何時もの5:30起床して近くの公園でマラソン、この時期は寒くて未だ外は暗かったです😰
その後、食事当番が朝食の支度をしてミーティング、何処どこでデモストレーションを行なってチラシを配る、夜は安いレストランで食事をして就寝の繰り返しで、12畳位の部屋に15人位がごろ寝してました、私は寝袋で寝てました😑
約一週間後にシアトルで公演を行い無事終了、そしてこれからは南へ向かってサンフランシスコ、LAに向かうと言い、飛行機だとお金が掛かるので中古の8人乗りのバンに12人乗って、太鼓はトラックのレンタカーを借りてそこに運転手と助手席に1人
田さんは先に飛行機に乗って目的地場所で会場の押さえやその他の仕込みをしていました
私はバンの荷物置きに体育座りをしてまるで兵士の様です
シアトルからまロサンゼルスでは約1,800キロ以上あります
私は自分に言い聞かせました、後でこれが笑い話として残るんだと言い聞かせて、何十時間も耐えました😣

何時間経ったんだろう?、取り敢えず次の目的地サンフランシスコに到着しました🚐💭
サンフランシスコは日系の人も多く太鼓は大人気でした
先ず着いて早速現地の人から熱いおもてなしを頂きました、手作りのお寿司やサラダ、唐揚げなど久しぶりです🍣🥗
遠慮しないで沢山食べてと勧められて、じゃあ、すみません頂きますと言ってお寿司の手巻きを頂きました
具の中身はきゅうりやアボカドなど入っていて、ん〜ん🥴当時の日本では余り食べた事が無いかなぁ〜、もうひとつどうぞと勧められて今度はピンク色の桜でんぶに何やら草が巻いていてこれなんだ?と思いながら食べていると強烈な臭みが来ました、なっなっ何なんだーこれは😱❗️始めて食った物でそれは今では普通に売ってるパクチーでした🍀
ゲーッ🤮、吐きはしませんでしたが余りの強烈な臭みに気分悪くなりました🤢
食べた事が有る人はわかると思いますがまるでカメムシ食っているみたいで(食った事ないけど)超臭かったです😱
後でパクチーを調べたら別名カメムシ草って言うんだって、俺当たってるじゃん😅
もうひとつどうぞと勧められたのでお腹がいっぱいでと言って丁寧に断りました
それからそこでサンフランシスコの太鼓愛好会の人と合同で練習をしながら又デモストレーションをして数日後に公演しました
サンフランシスコの人達に挨拶をして又車に乗って一路ロサンゼルスに向かいました🚐💭

シアトルからロサンゼルスまで何日かかったんだろうか、やっと目的地ロサンゼルスに到着しました🚐💭
先に到着していた田さんはアパートを一部屋借りていて、今日からここで1ヶ月公演をすると言って各自好きな所で寝るようにと言われました
私はクローゼットの中で寝袋を敷いて寝ていました、当時遊いつ楽しみだったのがラジオを持っていった事で寝る時に何時もイヤホンをして音楽を聞いていました
確かpower channelと言う番組で今一番イケテいる曲をチャートして放送していました、その中にはTOTOやデュランデュラン、デビットボーイの曲が流れていてとても楽しかったです😊
鬼太鼓座はタバコ、酒は一切禁止でしたが、私は隠れてタバコを吸っていました、そしたらメンバーの1人に気づかれて俺にも一本ちょうだいと言って来たので2人で家の裏でタバコを吸ってやってられないよな〜って愚痴を言いながら吸っていたのを思い出します😅🚬
鬼太鼓座には男性ばかりでは無く女性もいました、2人位いて1人はあだ名は今でも覚えていますがポコちゃんと言っていました😊
ちょっと可愛い感じの女の子で彼女も元マラソンランナーでした
LAでもデモストレーションをしました、UCLAの校舎でデモストレーションをしたりリトル東京でもデモストレーションをしました
田さんが私に二人羽織で1人が撥で叩いてもう1人が三味線を弾けば面白いのになぁ〜と言ってやってみないかと言っていたので、何それって思っていました🥴
その当時メンバーに井上と言うのがいて、最近井上兄弟として兄と弟でひとつの三味線を二人羽織してコメディっぽく弾いているのをテレビかなんかで見て、あっ田さんが言っていたやつを井上がやったんだ〜と思いました😳
鬼太鼓座の演目は色々有りました、オープニンングに締め太鼓を横一列に並べて叩く祭囃子でスタートで、ちょっとコメディーぽく太鼓のリズムだけで泥棒とそれを追いかける亭主のコメディーがあったり、その時三味線も弾きました、後は八百屋お七物語で町が炎でうちわ太鼓を持って追いかけるのが役人で、お七を取り囲みクライマックスは、はしごに登って半鐘を叩いてお七は炎にのまれるシーンですがその時に津軽三味線を弾いていました
後は太鼓を股で挟んで腹筋を使いながら叩く地獄のような演出等、
エンディングは佐渡おけさの篠笛から始まり女性が傘を被って踊るシーンから始まって屋台の上には大太鼓が乗っていて太鼓を叩くシーンです、盛り上がるところで一升瓶の水を口に含んで霧状に吹きかけるシーンです、秩父の屋台囃子をイメージして作られていました
最後は一同舞台に並んで手拍子を叩きながら酒屋唄を唄って三宝礼をして終了です
アンコールはオープニングに横一列に締め太鼓を並べて叩く祭囃子でした

色々パフォーマンスやデモストレーションをして田さんからようやくお金が入って来たので君にギャラが支払いできると良い、もし良ければこのまま鬼太鼓座のメンバーにならないかとお誘いを頂いたのですが、やっぱり日本に帰りますと行って断りました
滞在期間は2ヶ月半居ました、田さんから1,000ドル頂き、メンバーと別れて日本へ帰国しました、
メンバー達はさらに南へ移動して最終目的地はメキシコだったと思います
忘れもしません、12月25日に日本に着いてやっとシャバの空気を吸った感じで、自宅に電話をしたら母親がよし、よし、よしなの?って言うので(私の名前は義孝だから)そーだよって言ったら何処へ行っていたのよ、心配したんだから、電話も掛けて来ないしって言っていたから、今日本に帰って来たんだよ、電話くらいしろって言うから掛け方わかんねーよって言って自宅に帰りました

自宅に着いた俺は色々親に話して郵便物が山の様に届いていたので一つずつ見ていたらバイトの会社から手紙が来ていて中を開けて読んだら今までの働いた分の給料明細とお疲れ様でしたの手紙が入っていたので、会社に電話して、今日本に着きました、そしたら、そーなの、お疲れ様でしたと言って電話を切ったので、俺が会社に1ヶ月の休暇だったのが2ヶ月半に伸びちゃって連絡もしていないから解雇されちゃいました😓
まぁ〜いっかと思いました😅
当時母親と父親が飲み屋をやりたいと言ってお店を開店していました、みちのく屋と言う名前で営業していたのでお店の手伝いをしていました
そうこうしているうちにお弟子さんも増えて来てようやく三味線で食べて行けるように成りました
また、家元からもお仕事を頂き当時、神野美伽さんのコンサートで弾いたり、最近は長山洋子さんのお仕事を頂いたりして、今から20年前に名古屋で長山洋子さんの中日劇場の1ヶ月公演に出させてもらって、その時に今のカミさんと出会って結婚しました
カミさんは中日劇場や色んなイベントなのでそのタレントのグッズを売ったりテレビ東京で働いていた実績もあって顔が広かったのですが、ある時にカミさんにコロッケさんのマネージャーから電話が来て、今度細川たかしさんのモノマネをやるのに望郷じょんからで三味線が欲しいと連絡が来て、それなら良い人を知ってると言って紹介してもらいました
先ずはコロッケさんのコンサートを見た事がなかったので見てみたら何と超面白くて、腹が痛かったです🤣
エンディングが近づけば今までのおふざけがガラッと変わって人に感謝、愛情の話をして、あおいくま、コロッケさんの母親が何時も言っていた言葉だそうです
あまえるな、おこるな、いばるな、くさるな、まけるな、その言葉を何時も心に入れているそうです
その話を聞いて、大空と大地の中でを歌ってジーーーーンとして最後にアンコールと言うコーナがありますと言って笑いを取って最後は北島三郎さんの祭りで締めて華やかに終わると言うコンサートでした
私は初めて見て本当に感動してその後楽屋へ行ってコロッケさんに是非宜しくお願いしますと挨拶したら、ウチのスタッフ、メンバー全て家族だからねって言って又感動して俺も家族になりたいと思い握手したのを今でも覚えています😆

もうコロッケさんとは20年以上のお付き合いをさせて頂いてます、本当に芸に対しての努力はもの凄い人です自分に甘えず、人には手を差し伸べる、今はなかなか出来る人はいません
私の家元もよく言っていました、プロは上手くて当たり前、上手い裏には努力が必要だと、そして謙虚さを忘れずに何事も勉強中です、芸人は死ぬまで勉強
私も三味線を習い始めてからいつの間にか43年弾いています
昔はあんな手こんな手で新しいフレーズや曲などを考えていました、今は1人でも良いから感動したと言ってくれる三味線弾きに成りたいと思っています
有る方が私に教えてくれました、一芸極めれば全て繋がると、初めは良く解りませんでしたが、最近はその意味がよく解ります、
世の中は形、音、味、匂い、全て繋がっていると
料理で例えるなら、味はもちろん、匂い、音、形が必要で、貴族は料理を先ず目で形の美しさを楽しんでその後、匂いを、そして味を楽しみながら又鼻から息を出して再確認、周りでは美しい音楽を流して耳でのご馳走、これが人間にとっての最高の贅沢ではないでしょうか
音楽にも料理の言葉で例えがあります、あの人の声は味がある
音楽なのに味があるとはどう言う事でしょうか?
見た目は華やかさはないけどその奥に料理と同じ隠し味が有る、深みというか、その人だけにしか出来ない呼吸があると私は思います
最近はインスタ映えとか言って形だけに捉われる傾向がありますが、それはいずれ飽きます、綺麗に盛り付けても味が悪ければ人は去ります
人それぞれの感動の仕方に違いがありますが、形だけに捉われずその奥の院とは何かを探っていかなければ究極にならないと思います
私はこれからも皆さんに感動したと言われる様に精進し努力を惜しまないで行こうと思います

津軽三味線
澤田 勝春